オーダーキッチンのギャラリー

一九九九年五月一0日、経営難に陥っていた大阪の第二地銀、K銀行社長のS(五代目Tである)は記者会見し、六00億円の公的資金注入を金融再生委員会に申請すると発表した。
K銀の放漫経営は関西の金融界では、つとに有名で、数年前から危ない銀行の代名詞のようにいわれてきた。 潰れて当然な銀行が、税金での救済を求めたうえに、「公的資金の注入を受けた暁には、再度、自力で増資の可能性を探りたい」と言つてのけた。
間接話法ながら、Tは自らの社長続投を口にしたのだ。 あんな滅茶苦茶ゃったくせに、税金で助けてくれだどういう神経の持ち主なのか。
関西の銀行マンたちはあっけにとられた。 厚顔無恥ぶりに驚いたのは関西の金融界だけではなかった。
「地域経済に悪影響が及ばないよう、早急に公的資金を注入してもらう必要がある」記者会見でのS発言に、金融当局は反発を強めた。 K銀行は金融監督庁(当時、現在の金融庁)の検査結果を踏まえ、一九九九年三月期決算の不良債権処理額を当初計画の八倍超の六九四億円に増額。

この結果、六二一億円の経常赤字に転落した。 自己資本比率は0・五%程度と、国内基準行の健全性の目安である四%を大きく割り込んでいた。
K銀から報告を受けた金融監督庁は早期是正措置を発動し、自己資本の増強を求めた。 ところがK銀は、金融当局の想定外な行動に出た。
社長のSが突如、記者会見を聞き、「自己資本比率を回復させるために、公的資金を申請する」と表明したのだ。 資本増強を求めた金融当局に対して、「無い袖は振れません。
そうおっしゃるなら国が資金を出してください」と開き直ったのである。 金融再生委は、難しい問題に直面した。
預金者保護のために債務超過に陥る前に破綻処理する。 これがぺイオフ解禁後の金融機関の破綻処理に対する金融当局の基本的な考え方である。
だが、債務超過に陥っていない金融機関をどうやって破綻処理するのか。 いきなり、この問題の模範解答を出せと、Sから突きつけられたのである。

信用不安から預金が流出して、資金繰りが困難になれば、再生委の判断で金融再生法に基づく破綻処理ができる。 しかし、K銀は、債務超過でもなければ、資金繰りに窮しているわけでもなかった。
K銀行には、変な言い方になるが、破綻処理の必要十分条件が揃っていなかった、ということになる。 それを見越したかのように、Sは公的資金による資本増強という禁じ手を繰り出してきたのである。
金融機関のモラルハザード社長のSが強気に出たのは、資金繰りに問題がなかったからだ。 金融機関同士が取引をするコール市場と呼ばれる短期金融市場で、K銀はいくらでもカネを引っ張ることができた。
一九九七年二月にS証券が破綻したとき、コール市場でデフォルト(債務不履行)が発生し、大混乱に陥った。 そのときの教訓から、ペイオフ発動以前は、こうした、金融のプロ同士の取引も完全に保護されることになった。
経営が弱体化していたK銀行に対しては、通常より高い金利で資金を貸すことができる。 もし、K銀が破綻しても国が公的資金で肩代わりしてくれるから、焦げつく恐れはまったくない。
超低金利のときでもあり資金の運用難に端いでいた金融機関は、K銀にいくらでも貸した。 K銀は、高い収益が保証される絶好の運用先となったわけだ。
K銀は「預金などは全額保護する」という政府の方針を逆手に取って、したたかに、資金繰りをつけていたのである。 資金の出し手、借り手双方ともに、モラルハザード(倫理の欠如)状態だったといってK銀が破綻したとき、常軌を逸した取引で荒稼ぎした、火事場泥棒みたいな金融機関の名前を公表すべきだとの声があがったのは、当然の成り行きである。
「金融当局に貸しがある」との思いが、K銀社長の胸中にあったことは間違いない。 それで強気の行動に出た、と関西の金融人は異口同音に言う。
一九九七年、金融当局は関西地区で経営が行き詰まっていたK銀行、K共栄銀行、H銀行、N銀行の第二地銀四行を一つに合併させる再編案を描いていた。 しかし、KとHが、それぞれ、合併後の経営の主体行になると言って譲らなかった。
そうこうしているうちにK共栄銀行が破綻。 同年一0月、K銀はK共栄の事業の譲渡を受けた。
日近畿財務局は、K銀を「健全銀行」と認定し、公的資金を使って、K共栄の事業譲渡を認めたわけだ。 K共栄の受け皿になって金融当局に協力したのから、その見返りに公的資金を注入してもらってもパチは当たらないだろう、と考えていたフシがある。

K銀が、あっけなく経営破綻すれば、金融当局はK共栄をK銀に事業譲渡した判断の是非を問われることになるぞと、揺さぶりをかけてきたのである。 K銀は札付きの銀行だったといっていいだろう。
S一族が直接、間接に経営を支配するファミリー企業が大口融資先の上位一0社を独占。 ファミリー企業向けの融資は、実に一四00億円を超えた。
銀行を私物化して、何ら恥じるところのないトップが、「地域経済の救済」という錦の御旗を掲げて、税金の投入を、しかも正々堂々と求めてきたのだ。 金融当局は「K銀に、もしものことがあっても、地域経済にそれほど大きな悪影響は出ない。
困るのはSファミリー企業だけではないのか」と苦り切ったといわれるが、建て前としては別の対応が必要なことはわかっていた。 しかし、S一族が私物化した銀行の救済に税金を使えるわけがない。
再生委はK銀の公的資金の注入の要請に水面下で「ノー」を突きつけた。 自己資本比率0・五%程度の金融機関は、銀行法上「とくに著しい過小資本行」と認定され、公的資金による資本増強を拒否され、D銀行(現・R銀行。
第三章「Rホールディングス」の項を参照)からは「リスクが高すぎて合併できない」と、合併を拒絶されたK銀にとって、選択肢は一つしか残されていなかった。 一九九九年五月二一日は、早期是正措置に基づく報告命令の期限であった。

その日の夜、K銀は再生委に対して廃業を申請。 再生委は翌二二日に破綻と認定した。
社長のSは最後の賭けに敗れた。 公的資金を'申請した際には、行員を前に「私財提供も含め、最大限、努力する」と大見得を切ったが、破綻認定を受けた五月二二日の記者会見では、一転して「事態が変わったので、私財提供については管財人と話し合う」と、トーンダウンした。
こうした豹変ぶりに、「しょせんは五代目のボンボン」との噸笑が行内から沸き上がったという。 一九九六年二月二一日、H銀行(本章「H銀行」の項を参照)が戦後初の業務停止命令を大蔵省から受けて倒産した直後に、「K銀行のXデーは(九六年)二一月二0日」との説が流れた。
関西の別の銀行に勤める幹部行員が、心配になってK銀に勤める友人に「大丈夫だろうな?」と尋ねた。 すると、「一二月は大丈夫。
(大蔵省の)検査がないから。 だが、九七年二月に検査が入る。
その後、どういう結果になるか。 正直いってわからんな」との答えが返ってきて、返す言葉がなかったという。
H銀行の破綻の朝、取り付け騒ぎを懸念して、H銀行のW支局に張り付いた近畿財務局の若手(あれから一五年近くたっているから、今では中堅か。 でも、考え方が浅いので、私から見れば今でも若手だ)がこう解説する。

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